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CROWN English Communication Ⅱ Lesson10/4 和訳 [CROWN Ⅱ]

テディとカカの最後の再会は、1938年スイスのことであり、そのとき、テディは26歳だった。この再会のあと、テディはカカに手紙で、カカはこれまで出会った中で最良の友であったと書いた。彼は、カカが生涯を通して彼に示してくれた愛情と好意に対して感謝を表した。1939年に第二次大戦が始まったとき、カカとテディの間のさらなる接触は不可能になった。カカは1942年に、88歳で亡くなった。

カカが手紙を書き始めてから約100年が経ったが、その手紙は、世界中の読み手を年齢に関わらず惹きつけ続けている。その手紙はわたしたちに、わたしたちがどこにいても、どんな時代に生きていても、連絡を取り続けたいという気持ちを表すために少し努力することが大きな違いを生むのだということを思い出させてくれる。EメールやテクストメッセージやSNSによってすぐに友人や家族と接触することができる時代に、連絡を取り続けられる状態は、当然だと思われている。カカは技術に魅了されていたので、もしもその時代にインターネットがあれば、海を越えて家族と連絡を取り続ける方法としてインターネットを利用することを楽しんでいたことだろう。しかし、どれほど多くの電子メッセージが、後の世代に伝えられる「宝物」として残り続けるだろうか。手書きの手紙は、それらを書き送るのに費やされた時間と思いやりから生まれる、ずっと続く特別な魔法を持っている。カカの家族への愛は、孫に送ったイラスト付きの手紙を通して生き続けるのだ。

【語句解説】
reunion「再会」 throughout「~の間中ずっと」 extra「余分な」 instantly「今すぐに」
care to ~「~したい」 make all the difference「違いを作る、重要である」
fascinate「魅了する」 electronic「電子の」 handwritten「手書きの」 lasting「永続する」
take ~ for granted「~を当然だと思う」 stay in touch「連絡を取り続ける」 pass ~ on to…「~を…に伝える」 live on「生き続ける」

CROWN English Communication Ⅱ Lesson10/3 和訳 [CROWN Ⅱ]

大戦が1918年に終わった後、テディは父と一緒にインドに戻ったが、その一方でカカはイギリスに残ったままだった。当時、人々は船で長距離を移動しており、家族は、教育や仕事のために別れて暮らしていた。家族は長い距離によって分けられてはいても、つながりを持ちたいと思っていた。彼らは、郵便物が船で目的地に届くには何週間もかかるのに、手紙を書いた。

この期間のカカからの手紙は、テディだけではなく、孫娘であるマーガレットとエリザベスにもあてられていた。孫たちが5歳になると、カカは、彼らが字の読み方を学ぶ助けとなるよう大文字を使って、メッセージの中により長い文を入れ始めた。カカは、孫たちに、インドの珍しい動物だけではなく、発明品や技術についても書いた。電話やラジオ、そして動力飛行が、1920年代の先駆的な技術だった。

テディは、10歳のとき、寄宿学校に入学するためにインドからイギリスに送られたことを覚えていた。彼は続いて大学へと入学し、そのあと海外に赴任するために駐留軍に入隊した。カカには、孫たちと会う機会がほとんどなかった。そこで、彼はヨーロッパとインドにまたがって別々の場所に暮らす家族にあてて、手紙を書き続けた。

【語句解説】
distance「距離」 apart「別れて」 although「~だけれども」 mail「郵便物」 destination「目的地」 granddaughter「孫娘」 include「含む」
even though ~「~だけれども(※althoughと同じだが、~に当たる事実を強調している)」 turn「~になる」 capital letter「大文字」
rare「まれな」 pioneering「先駆的な」 attend「入学する」 overseas「海外に」 location「位置」

CROWN English Communication Ⅱ Lesson10/2 和訳 [CROWN Ⅱ]

カカは、ヘンリー・ソーンヒルだった。1854年生まれで、英国インド駐留軍の尊敬される陸軍将校だった。彼には3人の子どもたち――カドバート、チャーリー、マッジ――がいて、子どもたちはみんなインドで育った。マッジは、海軍の将校と結婚して、彼らは1912年に最初の子どもテディをもうけた。赤ん坊のテディが「おじいちゃん」と言おうとして言えなかったことで、ヘンリー・ソーンヒルのニックネームがカカになった。

カカは自然を愛していて、インドの鳥と動物に対して豊富な知識があり、その知識を孫たちと分かち合いたいと思っていた。1914年に、彼はイラスト付きの葉書をテディに送り始めたが、そのときテディは1歳半だった。いくつかの動物たちの絵があり、その動物は主にはミスター・ヘアとハーティと呼ばれる象であって、彼らがテディと冒険をするのである。

第一次大戦が勃発するほんの二三週間前に、ソーンヒル一家はイギリスに戻ってきた。イギリスでは、戦争によってすぐに、カカとテディは引き離された。というのも、テディの父親が海軍に奉仕するよう派遣され、一方でカカはロンドンに残ったからだ。カカは、動物やスポーツや発明品の絵を主に描いた葉書をテディに送り続けた。

【語句解説】
army「陸軍」 marry「結婚する(※他動詞なので、前置詞不要)」 naval「海軍の」 grandchild「孫」 principally「主に」 hare「野ウサギ(※hair「髪」と同じ発音)」
result in ~「~の結果になる」 at the time「当時」 a number of ~「いくつかの」
separate「切り離す」 navy「海軍」
break out「勃発する」

CROWN English Communication Ⅱ Lesson10/1 和訳 [CROWN Ⅱ]

ある日、チャールズ・グリマルディは、亡くなった母親マーガレットの持ち物に目を通しているとき、カカという署名が入ったイラスト付きの手紙や葉書でいっぱいのアルバムを見つけた。これらの手紙は、誰からのものだったのだろうか。

チャールズ・グリマルディは、おじのテディに電話をした。テディもまたカカからの手紙を持っていた。グリマルディは、カカが彼のひいおじいさんのニックネームだったということを知った。彼のいとこもまたカカからの手紙を持っていた。まもなく、彼は850枚を超える手紙とカードを手に入れた。それは、世界で最大のイラスト付き文通のコレクションである。彼は、それを出版することに決めた。英国のアン王女が、「Pictures in the Post(郵便の中の絵)」というその本の序文を書いてくれた。利益の一部は、国際的な慈善団体であるセーブザチルドレンの支援に当てられた。

さらに8人の人々がグリマルディに接触して、カカからの手紙を持っているといった。全部で、1200通のイラスト付きの手紙と葉書が発見された。

ここに、カカとカカが生きた時代、すなわち、英国と植民地のインドをめぐる戦争と航海と家族の生活の時代の物語がある。

【語句解説】
belonging「持ち物」 illustrated「イラスト付きの」 nickname「ニックネーム」cousin「いとこ」collection「コレクション」 correspondence「文通」 introduction「序文」 profit「利益」 charity「慈善団体」 total「合計」 colonial「植民地の」
late「亡くなった」 get ~ done「~を…する」

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson 2/2 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

ひき逃げ

スプリングフィールドの市長であるジョン・グレイは、その夜、考え事をたくさん抱えて、激しい雨の中、オーロラ通りで車を走らせていた。天気はその週の間中、雨降りだった。雨は非常に強く、数メートルより先を見ることは難しかった。雨はフロントガラスを叩き、その間、ワイパーは左右に動いていたが、効果は無かった。「ああ、なんて天気だ。こんな雨は、忙しかった日の最後に迎えるには、最悪のものだよ」と彼はため息をついた。

グレイ市長の市政の計画はうまくいっていなかった。市民は、彼のリーダーシップに満足していなかった。市長は、スプリングフィールドの将来について決断すべきことがたくさんあったが、彼の判断をみなが批判することは好まなかった。「どうして意見がそんなに分かれるんだ」と彼は思った。「どうして、みなの意見を一致させるのがそんなに難しいんだ」 スプリングフィールドはもはや小さな町ではなく、新しいリーダーシップを要求する人々もいた。それでもなお、市長は、自分が全ての問題を処理できるのだと思っていた。

そのとき、市長は、オーロラ通りとシダー通りの交差点に近づいていたのだが、自転車に乗った人が突然、前方に現れた。市長は、自転車を避けようと努めたが、手遅れだった。市長の車の前方は、自転車の後輪にぶつかった。自転車に乗っていた人は、通りを横切るようにして吹き飛び、事故が起こったところから数メートル離れた地面に激突した。

自転車に乗っていた人がそこに倒れているのを見て、グレイ市長は、車から降りて助けを呼ぶことについて考えた。しかし、彼はパニックを起こしていた。心の中で声がした。「このニュースが公になったら、終わりだ。ゆっくりと運転していたわけだし、信号は青だった。何も悪いことはしていない」 彼は罪の意識を感じたが、捕まることを恐れてもいた。「こんなことに関わっている時間は無いんだ」と彼は心の中で言った。

市長は、車を出発させた。信号が赤であることにさえ気が付かず。「道路状況に十分に集中していただろうか」と彼は疑問を持った。なお事故について考えながら。彼はまっすぐ家に帰った。家には誰もおらず、着いたのは事故の20分後だった。なお事故のせいで心穏やかではなく、市長は、携帯電話と家の電話を切って、音楽を聴くことにした。グレイ氏は、落ち着こうとして、さっき起きたことを頭の中から追い出そうとした。というのも、あの自転車に乗った男がもっと注意すべきだったからだ。

市長はラジオをつけて、地元の新聞を読んだ。雨は激しく音を立てて降り続けた。彼は、一杯酒を飲むことにした。瓶を開けたとき、手はまだ震えていた。その後まもなく、眠りについた。一時間ほどして、市長は突然目が覚めた。なおひどく罪の意識を感じていた。あの交差点に戻れたらいいのに、と彼は思った。

市長は腕時計を見た。夜は更けて、他に誰も家に帰っていなかった。電話の電源を入れようと思ったときにちょうど、ラジオからアナウンスが入った。

スプリングフィールドラジオから、今は入って来たニュースをお伝えします。今晩、若い男性が悲劇的な道路事故でなくなりました。なくなったのはシダー通りとオーロラ通りで、自転車に乗っていたところを衝突されました。警察は、事故現場から逃走した車を探しています。怪我をした少年は、事故から30分後まで放置されていました。急いで病院に運ばれましたが、手遅れでした。午後6時35分になくなりました。なくなったのは市長の息子さんです。

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson2/1 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

未舗装の道路から高速道路へ(そして、さらに)

わたしたちの現代の道路についてどう思うだろうか? あるものはコンクリートであり、あるものはアスファルトであり、あるものは灰色であり、あるものは黒色であるが、全て、ラインが塗られており、数え切れないほどの看板が立っている。ある都市部では、インターチェンジはごちゃごちゃとしていて、まるでスパゲッティのボウルのように見える。実際のところ、こうしたインターチェンジは、スパゲッティジャンクションと呼ばれているのだ。

世界は今日、たった100年前の姿と大きく異なっている。道路も幹線道路も高速道路も無かった生活を想像できるだろうか? 道路の始まりに戻って考えてみよう。ほとんどの古い道路は、未舗装の道路で、通るのは馬だった。しかし、ローマの昔にも、舗装された道路はあった。だから、道路は長い間、都市化の一部だったが、効率的な移動というものは現代のものである。わたしたちは、高速での移動に慣れ切ってしまっているため、何世紀もの間、道路による移動が非常に疲れるものであったことに、気がついていない。

18世紀と19世紀の間、数名のイギリスの技師が、道路、橋、運河、鉄道を世界中で作ったことで非常に有名になった。その一人が、トーマス・テルフォードであり、スコットランド出身の彼は、水の上に橋をかけたり、地上に水路を伸ばしたりすることで、道路建設を改善する素晴らしい方法を多数、思いついた。彼がしたことによって、都市への往復の移動が、以前よりもはるかに短くなった。

テルフォードの道路は、馬や、二輪車を使う人によって引かれる乗り物のために設計された。それががらりと1885年に変わった。その年、カール・ベンツという名のドイツ人技師が自動車を発明したのだ。それは何と重要な発明になったことだろう! 20世紀の初めころまでには、自動車は、急速に、主要な移動方法として、馬や荷車の代わりになっていた。この自動車の人気のために、コンクリートの道路が、古い未舗装の道路の代わりになり始めた。

ヘンリー・フォードという名のアメリカ人は、1908年に自動車の大量生産を始めた。彼のTモデルは、流れ作業で作られた最初の自動車だった。これが現代の自動車の発展における最初期の革命の一つであったことは疑い得ない。それにより、車はより安価になり、一般の人々も車を買うことができるようになった。

オートバーンと呼ばれる、世界で初めての幹線道路は、1930年代にドイツで作られた。続く70年間に渡って、数十もの国が、何千マイルもの幹線道路を作った。この幹線道路の大ネットワークのおかげで、今やロンドンからはるばるとモスクワまで、あるいは、カナダ北部から何千キロも離れたアメリカ中部までも、車で行くことが可能である。しかし、車でそんな長い旅をしたり、車の中でそんなにたくさんの時間を過ごしたりしたいと思う人が多くはないことは確実である。

わたしたちの世界はより相互につながりがあるようになってきており、互いの距離は縮み、利便性は非常に大きくなったように思われている。しかし、わたしたちはそれとともに犠牲を払う必要もできた。スパゲッティジャンクションに加えて、急速な発展によって、わたしたちは、高速道路における交通渋滞や都市におけるスモッグ汚染という問題を抱えるようになった。自動車と道路の偉大な発明家たちは、おそらくこのような問題を想像しなかっただろう。わたしたちはより速く移動しているが、前に移動しているのだろうか。移動手段における次の偉大な発展は何だろうか。

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson1/2 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

フライトアテンダントは楽じゃない

フライトアテンダントの仕事は見かけほど楽ではない。飛行機で移動するほとんどの人は座って本を読み、フライトアテンダントに特別なことを求めることはない。しかし、中には常に質問を投げかけたり、不満を述べたりする人もいる。そういう人々を快適な気分にするのは非常に難しい。ある男性は、自分がいつも今どこにいるのかを知りたがる。「今どこにいるのか、教えてもらえないか」と彼は尋ねる。「できれば、地図上で、現在地を示してもらいたいのだが」

「そうですね、今は太平洋上です」フライトアテンダントは答える。「そのため、見えるものが本当にほとんど無いんですよ」

「どこかの島の上を飛んでいると思わないかい? 下に島が見えたような気がするんだが」と彼は言う。

「ええ、もしかしたらそうかもしれません。ですが、大きな島の近くにはおりません」 そう言う他、何を言うことができるだろう。彼女には、特別なものではない普通の答えしか返せない。一方、他の乗客である三列後ろに座っていた高齢の女性が、夕食に関して、困っているようだ。

「すみません。ちょっといいですか?」

「ええ、もちろんです」 フライトアテンダントは微笑む。「どうされましたか?」

「こういう食べ物をどうやって食べたらいいのか分からなくて」とその女性は言う。「以前にこういうものを見たことがないので」

フライトアテンダントは、サラダを食べてからそのあと魚を食べるのがよいでしょう、と言う。彼女は、女性の前にあるシートのポケットにあるメニューを見せて、彼女に、魚のためのホワイトソースの入ったブラスチックの容器について話す。

「まあまあ、クリームだと思っていたわ」とその女性が言う。「もうコーヒーに入れちゃったわ」

フライトアテンダントは、微笑む。以前にもう何度も起こっていることなのだ。どうして、開けたあとにならないと、容器の指示を読まない人がいるのだろう。「いえ」と彼女は言う。「コーヒーのクリームは、こちらの小さな茶色の容器に入っています」

「小さな茶色の容器? まあ、それはサラダにかけちゃったわ。別のものを持ってきてもらってもいいですか? 見知ったものを」

そういう風に進む。ほとんどの旅行客は、飛行機では他の食事を頼めないということを知っている。よくて、チキンかビーフかを選べるくらいのものだ。しかし、飛行機には、初めての旅行客だけではなく、毎週飛行機で旅行している人がいる。フライトアテンダントは、彼らの全員に対処できなければいけない。東京へのフライトで、心配そうな声で、「生魚なんて食べることにならないといいけど」と言われるのが聞こえるかもしれない。自分が席を替えることができるかどうか、知りたい人がいる。たとえ、その便が満席でも。別の男性は、国際日付変更線の上を飛んでいるときに、いま何時なのか、と尋ねる。また別の人は――

そう、質問には限りが無い。だから、想像できるとおり、フライトアテンダントの仕事は見た目ほど簡単ではない。多くの親切心と忍耐力が必要である。

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson1/1 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

ユーロの旅

「さあ、これが、その正体さ」と、サイモンは言った。わたしを手で高く掲げ、わたしの光り輝く顔を称えながら。「絶対にこの硬貨はまだ5人以上の手に触れられていないね。ジョセフは、この誕生日プレゼントをもらったらすごく喜ぶよ」

これが、サイモンがわたしをポケットの中に入れて、家まで一緒に連れていってくれる前に、わたしが覚えている全てである。わたしが何なのか、分かるかな? わたしは、1ユーロコインだ。2002年の1月1日に世界に導入された。何千という新しい兄弟姉妹とともに、わたしは、ユーロゾーンと呼ばれる12のヨーロッパ諸国の古い通貨に代わるため、派遣された。わたしたちは、世界でこれまで見られた最も有名な硬貨のいくつか――フランスのフラン、ドイツのマルク、スペインのペセタ、他の多く――を引き継ごうとしていた。

そういうわけで、わたしがサイモンのポケットに入って連れて帰られているとき、わたしはとても特別だと感じていた。サイモンは、わたしを家族みんなに見せた。すると、家族は周りに集まってきて、わたしは映画スターのような気分になった。「裏側には何が描かれているだろう」とみな尋ねた。そこで、サイモンはわたしをひっくり返した。最も有名な音楽家であるモーツァルトの肖像があった。わたしはオーストリアのコインだったのだ。そのあと、わたしは、注意深い指図とともに、ジョセフに渡された。「注意して保管しろよ。ユーロをなくした最初の子になりたくないだろ」

ああ、いい思い出だ。わたしは本当に手厚く扱われていた。しかし、まもなく、ユーロコインはどこにでも現れるようになった。ジョセフはわたしに興味を失い始め、わたしは、彼にとって単にどこにでもあるコインの一つになった。ある日、彼はわたしを温かい手で握り締め、遠くの店まで行った。「頼むから、もう少し空気をくれないか」と、思わずにはいられなかった。そのあと、彼はわたしを三回は落としたはずだ。彼は、わたしを口の中にさえ入れたのだ。「飲み込まないでくれよ」とわたしは祈り続けた。

ようやく、ジョセフはお菓子を買うのにわたしを使って、その後、わたしは、ほとんど毎日新しい所有者に持たれることになった。一週間近く、あるレストランのキャッシュレジスターの中に座っていたあと、誰かの車の灰皿の中に入れられた。においが最悪だった。わたしは、二度とそこから出られないんじゃないかと思った。その車は、わたしが予測していたよりも、かなり遠くまで行った。31.わたしは、道沿いでガソリンの代金になる手助けをしたが、わたしが聞いた単語は、benzinaだった。国境をまたいで、イタリアに入っていたのだ。物価は非常に高かった。わたしは、ソフトドリンク一本分にさえならなかった。

これは秘密だが、わたしはいつかギリシャに行くことを望んでいた。ギリシャでは物価はイタリアよりも安い。わたしのような1ユーロコインでも、ギリシャでは相当の価値がある。ギリシャでは、わたしは、一杯コーヒーを買って、いくらかお釣りができるくらいの価値がある。しかし、イタリアではそうではなかった。イタリアでは同じ分は買えなかった。わたしは、イタリアで一カ月以上を過ごし、それから、フランスで二週間過ごした。

フランスに滞在しているとき、わたしは自動販売機でドリンクを買うのに使われた。わたしは収集され、数えられ、銀行に到着した。わたしは、しばらくの間、わたしのような他の多くの硬貨とともに引き出しの中で座っていた。わたしたちの多くは、後ろに、アイルランドのハープとか、レオナルド・ダ・ヴィンチによる絵のような様々なデザインが描かれていた。わたしたちはそれぞれ異なった言語を話していたが、自由に、互いの国へ行くことができた。

旅行の全行程で、わたしは一度も洗われなかったが、絶対にお風呂が必要だった。指紋や泥や塵でまみれていて、輝きを全て失っていた。わたしはかつては銀や金のように見えたが、今ではむしろ鉛のようだ。確実に、わたしは使われすぎて、過小評価された。休みが必要だった。

とにかく、話を簡単にすると、わたしは今オランダの宝石箱の中にいることができて満足しているということだ。わたしの所有者は、わたしは彼女の「幸運のコイン」で、わたしを使う気はないと言っている。思うに、わたしはしばらくの間、ちょっとした休息を楽しむことができるだろう。しかし、もしわたしがまた旅に出たとしたら、わたしの身に起こることをお知らせしよう。

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson10/2 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

愛のノーベル賞

隣の人のことを知っているだろうか。文化や、育ってきた環境の違いによって他者を無視してしまうと、愛と友情のための重要な機会を失うことになる。ある有名な人がかつて言った。「隣人について知りなさい。彼らがどういう人かあなたには分かりますか」 こう言った人はアグネス・ボヤジュだが、もう一つの名前の方であれば知っていることだろう。マザー・テレサである。

マザー・テレサは、20世紀で最も有名でかつ尊敬されている人の一人だった。この小柄な女性は、多くの人に感銘を与え、偉大な聖人と見なされている。インドの貧しい人々に対する彼女の活動によって、多くの人々が、この技術革新が進んだ時代にあって、貧困状態で暮らしている数百万もの人々に対してなされなければならないことが、なお数多くあるのだということに気がついた。

マザー・テレサは、ヨーロッパのバルカン半島で生まれ、アイルランドで修練を終えたあと、インドの学校で教鞭を取った。カルカッタでは、身の回りに大変な貧困があることに気がつき、彼女は自分の人生を、「貧しい人々の中でも最も貧しい人々」を助けることに捧げるようになった。彼女は特に、人種、肌の色、宗教に関わりなく、捨てられた子ども、死にかかっている人、病気を患っている人を、助けることを熱心に行った。

マザー・テレサは、「神の愛の宣教者協会」として知られる修道女会を設立した。その目的は、捨てられた人や、路上で死を待つしかないほど病に冒された人に居場所を提供することだった。その修道女会に初めに参加した人の中には、マザー・テレサ自身が教えた生徒たちもいた。この修道女会のメンバーは、今では世界中で見られる。彼女たちは、マザー・テレサが1990年代の後半に亡くなったときから、彼女の行いを引き継いでいる。

修道女たちは、死にかけている人や打ち捨てられた人を街の通りから救い出し、彼らのためにできることを行っている。マザー・テレサは、修道女が手を差し伸べる人々の多くが、衣服や雨風をしのげる場所を必要とするのと同じくらい愛されていると感じる必要があるのだと信じていた。彼女は、必要とされていないという思いが、世界中で最も悪いものだと信じていた。彼女自身の言葉によれば、「最大の邪悪は、愛の欠如、すなわち隣人への興味と配慮の欠如です」ということである。

マザー・テレサは、彼女の仕事において多くの障害を克服する必要があった。それらの障害の中には文化に関するものもあった。彼女自身、東ヨーロッパからアイルランド、そしてインドにまたがる、多くの言語を学ぶ必要があり、多くの文化に精通する必要があった。最終的に、彼女はインドの国民となって、修道服としてインドのサリーを身につけ、いくつかのインドの言語を話した。しかし、外国人が自国の貧しい人々の世話をすることは、インドの人々にとっては、奇妙で、戸惑いを感じることだった。インドの人々の中には、マザー・テレサは部外者であると考えている人もいたが、マザー・テレサは、自分もまたインド人であると常に主張していた。

もちろん、この点に関する問題の一つは、マザー・テレサがカトリックの修道女であるということだった。インドは、ヒンドゥー教とイスラム教とジャイナ教が混在している国だが、カトリックはそれらの宗教と比較するとよく知られていない。宗教と言語、さらには食事や衣服のようなものにおける違いが、文化に関する深刻な誤解を招くことがある。しかし、これらの違いが、また、わたしたちの世界をより多様に魅力的にしてくれてもいる。マザー・テレサは、文化的な違いによって恐れを抱くことで、自分の心が命じることを避けることを許さなかった。

マザー・テレサは、最終的にはインドに受け入れられた。彼女が1997年に亡くなったとき、盛大に葬儀が行われた。この聖女は、あらゆる人種、あらゆる国の人々に対する愛と共感の力にあふれていた。それゆえ、マザー・テレサが、1979年にノーベル平和賞を授与されたことは、不思議なことではない。以下は、そのときの彼女の言葉の一部である。

「先日、わたしは、20年間寝たきりの男性から15ドルを受け取りました。男性が動かせる部分は右腕しかありません。彼の唯一の楽しみは、タバコを吸うことです。彼はわたしに言いました。『一週間煙草を吸わなかったんです。それで、このお金をあなたに送ります』と。それは彼にとっては大きな犠牲に違いありませんでしたが、その行為がいかに美しいか、どのように彼が分かち合ったか見てください。そのお金でわたしはパンを買い、飢えている人々にあげました。どちらの人にも喜びがあるのです。彼は与え、貧しい人々は受け取ることで。これは、あなたにもわたしにもできることです。他者と愛情を分かちあうことができることは、神のわたしたちへの贈り物なのです」

PROGRESS IN ENGLISH 21 BOOK4 Lesson10/1 和訳 [PROGRESS 21 BOOK4]

国ごとによる違い

典型的な日本的なものの名前を挙げなければならないとしたら、何を選ぶだろうか? もしかしたら、着物や寿司やアニメや相撲を挙げるかもしれない。それとも、もっと抽象的なもの、たとえば、労働倫理や、礼儀正しさの重要性、先輩後輩関係などを挙げるかもしれない。礼儀作法と慣習ということになると、それは国ごとに異なるものであって、しばしば、説明するのが難しいことがあり、それに慣れていない人を驚かせることがある。

初めて日本に来た時のルークの経験は、異なる礼儀作法と慣習の好例である。

ルークが日本に来た時、彼はそれまでに日本語を三年学んでいて、ようやく使う機会に恵まれることになったので、わくわくしていた。しかし、到着してすぐに、彼はいくつか恥ずかしい間違いをすることになった。まず、彼はホストファミリーの夫妻にあったときにハグをしようとしたが、ハグの代わりに、彼らは握手をしてきた。ルークはかたく握ったが、二人はそうはしなかった。

成田空港を歩いているとき、ルークはフライトについて大きな声で話をしたが、夫妻はそれほど答えてくれなかった。ルークは時差ボケで、自分だけがそんなに大きな声で話しているということに気がついていなかった。13時間飛行機に乗っていたので、歯を磨く機会がなく、その代わりにガムを噛むことにした。のちに、彼は、そのことにつき夫妻が初めて人に会うときに行うには失礼な行為であると思っていたことを知った。

ルークが長い間飛行機にいたことを知っていたので、主人は、ちょっと休んで何か食べることを申し出た(それほど時間は無かったのだが)。ルークは、和食を試してみたかったので、勢い込んでうなずいた。主人は、ルークがその申し出を受けるとは思っていなかったので、驚いたように見えた。彼らはまだ東京へと車で行かなければならず、少なくとも二時間はかかる予定だった。

ルークは、皆の身ぶり手ぶりから、何かがおかしいことに気がつくことができ、ちょうどそのとき、マクドナルドを通りすぎた。それがその日を救ってくれた。「すぐにつまめる簡単なものでもいいですよ」と彼は夫妻に言った。彼らは微笑んで、ホッとしたように見えた。ルークはフライドポテトを一袋買ったが、彼がターミナルを歩きながら食べるのを見て夫妻はショックを受けた。歩きながら食べるなんて! しかし、ルークとしては、車に乗る前に食べ終えてしまわなければいけないと考えていたに過ぎない。ルークは、車の中に食べクズを落としたくなかったのだ。

彼らは車に着いたが、ルークはどこに座ればいいのだろうかと思った。彼は中に入るのをためらって、夫妻が前の座席に座ったとき、外に立ったままだった。ルークの国では、普通は客が最初に車に乗り、しかも前の座席に座るので、彼は少しとまどった。夫妻としては、ルークは少し眠りたいだろうし、後部座席の方が寝るのに適しているのだと思い込んでいた。しかし、誰も何も言わなかったので、彼らはさらなる文化の違いによる冒険の道を進むことになった。

文化的な誤解が生ずる理由で最も多いのは誤った情報によるものであり、誤った情報は、しばしば不快や、悪意の原因となる。たとえば、ある日本人がフランス人に会って、「はじめまして、わたしは高橋です」と言ったとすると、そのフランス人は、「どうしてこの人の名字しか教えてもらえないのだろうか。彼は、わたしに対して名前を隠そうとしているのだろうか。失礼なやつだ!」と考えるかもしれない。しかし、日本では、新しく知り合った人に名前を教えることは非常に個人的なことだからできないと考えられることがあり、個人的すぎることはある場面では失礼になることもある。そういうわけで、そのフランス人が日本文化を少し理解していたら、「はじめまして、わたしは高橋です」という挨拶を聞いた時に、誤解することはなくなるのである。解決策としては、ただ他者の慣習について知るだけのことでよいのだ。

文化的な障壁に加えて、言語の問題もある。二つの異なった言語間では、文法や語彙以上に考慮すべきことがある。それは単なる言葉ではないのだ。人々の考え方が異なっているのである。外国語を学ぶことは、外国へ入ることを意味しており、それは時に不快なこともある。英語を話す日本人は、「よろしくお願いします」や「お疲れ様です」のような表現を使うことができないときに、窮屈に感じることがよくある。また、「Take it easy.」や「Good luck.」のような英語の表現を聞くと、気分が悪くなることもある。あることを翻訳することは本当はできないのだ。その難題は、新しい言葉を学ぶことよりもはるかに上のものだ。本当の難題は、新しい世界に踏み込むことなのである。